5日間の行程で、東北3県(福島第一原発周辺を除く)の被災地へ。
千葉県の先輩市議の車に便乗させていただき、岩手県陸前高田市から宮城県気仙沼市、南三陸町、塩釜市、福島県相馬市と南下しつつ、一日一自治体(ボランティアセンター等)を訪問し、各所で作業を手伝いました。
今回の大目的はゴールデンウィーク明けにボランティア数が激減すると聞いていたこともあり、継続してボランティア活動ができる(送り込める)拠点づくりとまではいかないまでも、今後に向けての何らかのきっかけづくりができないかということ、あわせて避難所の支援物資の状況・配給状況を自分の目で確認するためです。
津波被害は報道等で見てきましたが、何より現場の海との距離感を知りたく、南あわじ市の地形を思い浮かべながら各地を見てきました。
行政や議会議員としての視点もないわけではないですが、結果的にはやはり現地での復興支援活動としたい思いの中での5日間となりました。
特に誰から要請されたわけでもありませんし、私が議会議員でなくとも同じ行動を取ったと思います。一日も早い復興を願う国民の一人として個人的に行ったまでであり、よく市議のくせにという表現を使われるのですが、そのような意見はあるにしても、私は誰に何と言われようと、もう一回でも二回でも行こうと思っています。
もちろん、すべての方に被災地に入ってほしいとは言いません。西日本からだと交通費の負担と移動時間が大きすぎますし、数日活動するぐらいなら義援金で送ったほうがいいという意見にも賛同します。
ただ、今回現地を訪れ、多少の時間の融通がきいて、経済的、体力的に余裕のある方には、是非ボランティアに入ってほしいと強く感じましたし、すべての被災された市町村を見て回ったわけではありませんが、陸前高田市は特に人手を必要とされていました。
各地で多少のニーズの違いはありますが、2ヶ月経った今でも、全く手つかずの報道からは名前も知られていない地区が無数にありますし、くしくも震災で有名になった市町村でもボランティア人員が日に日に減少している状況です。
現地の作業は9時~15時が主流で軽作業がほとんどです。もちろん泥かき、家財道具の運搬、ゴミ出し等、日常生活ではしんどい部類の作業ですが、健康な老若男女がちょっと気合いをいれればできる作業であると思います。
実際にボランティアとして現地入りされていたのは、定年以後の男性、女性、そして20代の若者でした。青森、秋田、新潟、そして被災地の方々も多くみられましたし、西日本の車のナンバーも多くありました。
お時間が許す方がおられれば、詳細は下記のホームページ等でご確認できますし、不明な点等があれば直接電話されるのが良いと思います。
気がかりなのが装備品と食事と宿泊、そしてお風呂だと思いますが、軽装備で十分作業できますし、車で30分走ればコンビニ、ガソリンスタンドもあり、市内では移動弁当屋さんも出店されていました。
今回、陸前高田市内では宿泊しませんでしたが、車で1時間も走れば一関市内のホテル・民宿等に宿泊できると思います。
※現地の詳細についても私でよければお答えいたしますので、ご連絡いただければ対応させていただきます。
写真左奥が海岸ですが、4kmは離れています。手前の田んぼの瓦礫を手作業で一次集積します。いくら現地作業といえど、ボランティアは安全な場所での作業が基本です。土曜日でしたので200名を超えるボランティアの方々との共同作業でした。
写真右上の家屋ではおばあさんが洗濯をしていました。市内の陸地(浸水末端部)はどこともこのような状況です。
高台道路より中心街。おそらく海抜10m程度はある場所ですが、写真のように鉄の柵が折れ曲がっています。
沿岸部はコンクリート製の建物以外はすべて見当たりません。
海岸から約10km地点の河川敷と思われる場所は手付かずの状態。少し入り組んだ場所では2ヶ月経った今も警察による行方不明者の捜索が続いていました。
帰り際には仮設住宅に入居されている70歳ぐらいの女性とお話させていただきました。
「私らはまし、まだ避難所に大勢の方がいる」
「支援物資は十二分にいただいている、本当にありがたい」
「他の場所も手伝ってあげて」と笑顔でこちらがおくりだされてしまいましたが、ただ、表情からは疲れが感じられました。
ボランティアセンターの方の「1000人来ていただいても数カ月で終わらないけど・・・」という言葉が今でも脳裏に焼き付いています。
夏の猛暑や雪の中では作業効率が極端に低下します。「ここ1,2カ月が勝負。夏までにもっとボランティアの方が増えてほしい」と、関係者のほとんどの方が口をそろえていました。
後ろ髪をひかれる思いでしたが、次の目的地、気仙沼市に車を走らせました。
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