最終日は福島県相馬市のボランティアセンターへ。
9時を過ぎた時点で相馬市内の当日のニーズは充足されていましたが、隣町のボランティアセンターと連携が取れているようで、すぐに新地町に出向いてほしいとの要請をいただき、そのまま現地へ。
海岸から1kmほど離れた住宅地へはいりました。
約1mの浸水被害を受けた家屋で床の泥出し作業でしたが、ここは30戸ほどの住宅地で海に面した10戸程度の家屋が全壊し、奥地にある住宅は直接の津波を受けずに無事という、皮肉な状況でした。
ただ、現場は瓦屋根が飛散したままで非常に危険な状態でした。淡路瓦の関係者の方々も各地で復旧業務にあたられているようです。一日も早く、そしてしっかりした瓦葺きに切り替える技術も豊富にあるとのことですので、淡路瓦の巻き返しにも合わせて期待しています。
今回、数々の現場で感じたことは、海抜の数mの違い、ちょっとした立地関係で生活が一変してしまっているということ。
当たり前のことなのですが簡単に受け入れることができませんでしたし、簡単に言葉には置き換えられない状況ばかりでした。
そして、たとえ自宅が流されなかったとしても、多くの方が「自分だけが助かって心苦しい」との認識を持たれている半面で、パチンコ店が盛況であるという現実。
自然を恨んでも恨みきれませんが、今後、自然の前に人間はどう生きていくのか。今回浸水した地点の方々はこのまま街から去ってしまうのか、全国の沿岸部のまちづくりはこの時点で止まってしまうのか。
津波を力づくで止めることはできませんでしたが、高潮・台風対策が必要な箇所は無数にあるはず。
そして復興税は。
作業終了後は相馬市役所で支援物資の状況や今後の行政の対応について。
被災された方々の名簿が掲示されており、誰がどこの避難所に避難されているか掲示されていますが、中には写真つきの行方不明者の捜索依頼も。
原発の近くということもあり、普通の庁舎のたたずまいですが、掲示物の内容はすべて非常事態でした。放射線量の定点観測数値も随時公表されていました。
別棟の庁舎窓口では赤十字社からの義援金の一次給付も始まっていましたが、全壊40万円、死亡・行方不明者(6/11時点で配給)は1人につき40万円、30km圏内の1世帯につき40万円という内容でした。
東京への帰り道。福島第一原発30km圏内へは当然近づくこともできませんし、今回は近づく理由もありません。
そこで生活を営まれていた知り合いの親戚の方々のことも含めて、どうすることもできていない自分に嫌気が差しますが、現状では何の答えも見つからないままです。
※震災後、原発の本を数冊読んだぐらいでの発言・書き込みは控えさせていただきます。
今回は5つの現場で作業、7つのボランティアセンター、市役所等を訪れました。一ヶ所で作業を続ける方法も選択肢として持っていましたが、結果的にはそれぞれの被災地の違い・ニーズの違いも感じることができました。
復興への道筋はいまだ見えていない被災地がほとんどであり、これからも長期的にさまざまな形で支援を継続していかなければならないと強く感じましたし、南あわじ市としてできること、淡路島レベル、県レベル、民間レベルでできること、すべてにおいて関係各機関に投げかけを続けていきたいと思います。
明後日からは要援護者避難訓練のレクチャーを受け、来月からは半年間、防災リーダー講習に参加します。
災害の基本は自分の命を守った上で、家族を守り、そして地域を守る。
今回東北に足を踏み入れるまでは正直「がんばろう」なんて、酷な言葉で、もっと気の利いた日本語がないもんだろうかと思っていましたが、被災をされた当事者の方々の現地で掲げる「がんばろう日本」「がんばろう東北」の旗を見るたびに、こちらが勇気づけられる5日間でした。
がんばろう日本!
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